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だまされる私、殺される仏(2017.4.8)

ずっと以前、ある研修に参加したときのことです。講師の和尚さんが、「仏さまにだまされて、よくいらっしゃいました」というご挨拶をなされ、うまい言い方をするなあと感じ入ったことがありました。
その後、信仰とは、言わば「それでだまされても後悔しない」ことなのかな、と漠然と考えるようになりました。

 
ところが中国の禅語録には、逆に「もしも仏に出会ったら、そんなもの殺してしまえ」なんていうセリフも出てきます。ここには、「仏にだまされるものか」という意図があります。いかにも禅宗らしい、難解ながらも痛快な言い回しです。

 
さてさて、では、仏さまは私たちをだましているのか。それとも殺されるのを待っているのでしょうか。

 
このあたりを言い換えますと、私たちは仏さまのみ教えに、とことんその身心を任せなければならない(だまされる)のか。仏さまのみ教えを、とことん乗り越えていかなければならない(殺してしまう)のか。じつはその両方なのか。さてさて、今のあなたにとってはどうだと問われている、となるでしょう。「教え」の中身を変えてみれば、おそらく社会教育の現場などでも、日常的に試行錯誤されていることかとも思います。

 
だまされてだまされて、とことん任せきって、良い方向に転がるか。かえってぬるま湯に浸って溺れてしまうか。

殺して殺して、とことん乗り越えて、次の地平に至れるか。かえって誤った世界に迷い込んでしまうか。

自らを省みる、バランスのとれた姿勢が信仰には必要のようです。

 
今日は、お釈迦さまがお生まれになった日。いま私は、お釈迦さまや、そのみ教えをお伝え下さった祖師方にだまされても後悔しないと断言できます。(が、良い方向には転がらず、ぐずぐず留まっているばかりではあります・・)

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