禅に名言なし(2020.2.15)

禅に、「不立文字(ふりゅうもんじ)」という言葉があります。禅の神髄は、文字で言い尽くすことはできない、という意味です。

しかし、詳しい方なら、禅にはあふれるほどの言葉がうずまいていると、お感じになっているのではないでしょうか。
いわゆる「禅語」もそうですし、古くより、たくさんの語録や伝記が伝わってきています。そこには禅僧たちによる、さとりを得る瞬間の言葉のやりとりが詰まっています。

 
私はそれらを見るとき、よく連想することがあります。

 
たとえば、プロポーズの場面です。

 
映画やドラマでの、プロポーズの場面に感動することはよくあるでしょう。
ところが、見た映画とおなじようにプロポーズをしたとしても、相手が受けてくれるとはかぎりませんよね。

プロポーズでのやりとりは、その二人の間だけでしか成り立たないことだからです。
また、タイミングの問題もあります。半年前なら、まだうんと言わなかったかも知れません。1年後だったら、残念ながら、もう別れてしまっているかも知れません。

 
じつは、禅の語録や伝記に書かれている、さとりを得るシーンも、その場、その人たち、そのタイミングでしか成り立たないということで、共通しているのです。

禅の場合は、これを、ふだんの生活にあてはめます。

私たちが暮らしている毎日は、くり返しに見えても、昨日とおなじことをしても、すべて違います。そのときそのとき、選んだことを、そのつどそのつど、なんとかやってみようと積み重ねているのですね。

ジャズで言えば、即興演奏の連続です。

「ジャズに名曲なし。ただ名演奏があるのみ」という言葉があるように、一度きりの真剣なやりとりだから、目にし耳にする者の心を動かすのですね。ここも、その場、その人たち、そのタイミングでしか成り立っていないわけです。

 
さて、もしも、その言葉を禅にあてはめると、「禅に名言なし。ただ名場面があるのみ」となりますでしょうか。

 
ここで言う「名場面」とは、それが一度きりである、ということです。

 
私たちは、ついつい、代わり映えのない毎日を送っていると思いがちです。
ですが、じつは、毎日はいつも一度きりです。そこにお気づきくださり、どうか毎日のそのままが「名場面」なのだと、信じてお過ごしください。