伽藍が整うこと

これは明治33年に発行された『山城寶鑑』という書物に掲載された、当時の東運寺の挿絵です。(クリックすると大きくなります)

由緒書きを見ると、元文4年(1739)に本堂および薬師堂が再建されたと書かれています。ちょうど8代将軍徳川吉宗の時代。3世要津祖梁(ようしんそりょう)住職のときのようです。
つづいて、文化5年(1808)に庫裡が建てられたとの記録があります。
11代将軍徳川家斉の時代。9世鑑應梵亀(かんのうぼんき)住職か、10世即通邦道(そくつうほうどう)住職のころかと思われます。

この資料により、おそらく江戸時代中ごろには伽藍がそろい、現在の東運寺とそう変わらない姿になってきたと考えられます。

 

ご開山ご木像のこと

本堂の裏がわ、位牌堂の奥に開山堂があります。そこはご開山さま(初代の住職)をおまつりするお堂で、高さおよそ1メートルになる、萬安英種(ばんなんえいしゅ)禅師のご木像が安置されています。

じつは、これはもともと萬安禅師のご木像ではありませんでした。東運寺に来る前は、宇治の興聖寺(こうしょうじ)にあって、そのときは道元禅師のご木像としておまつりされていました。
興聖寺は、鎌倉時代に道元禅師が日本で最初に開かれた曹洞宗のお寺で、はじめは京都伏見の深草にありました。ところが、禅師が福井の永平寺に移られてからは寂れてしまい、江戸時代になって今の宇治の地に再興されたのです。そのときにまつり始められたのが、このご木像だったそうです。

宝暦元年(1751)道元禅師500回忌のおり、臨済宗本山の建仁寺にあった道元禅師像をもらいうけて開山堂にまつります。その禅師像は、禅師の直接の弟子であった人たちが、禅師亡き後に作った歴史あるものでした。
そして、もとあったご木像が、東運寺に運ばれてきて、ご開山さまとしておまつりされることになったようです。東運寺でも、もっとも古い仏さまのひとつと言えるでしょう。