東日本大震災からふた月あまりがたちました。
あらためて被災の様子などをうかがうと、私たちの「いのち」はなんてはかなくて、不安定なものなのだろうと実感いたします。
私たちは、ふだん「いのち」に限りがあることに気がついていません。しかし、「いのち」には限りがあるのです。たいへん残念で、耐えがたい思いに駆られます。
そんなとき、ある布教師さんが書かれた、「「いのち」は願いを受けて生まれた。ポツンとそこにあるのではない。支えられて、生かされている」という文章を目にしました。
私たちのいのちは、ずっと伝わってきたいのちを受け継ぎ、たくさんの願いを受けながら生まれてきたものであり、今も大勢の人やモノに支えられているから、こうして生きていけるのだ、、という意味であるようです。
そう聞くと私たちは、「いのち」をたいせつにしなければと感じることでしょう。復興への思いも、きっとそこから湧いてくるものと思います。
それは、じつは「いのち」に限りがあることの証拠でもあります。もしもそうでなければ、あることが当たり前になり、大切に思うことも、愛おしく思うこともなくなるからです。
「いのちを愛しく大切にすること」と、「いのちが不安定で限りがあること」は、車の両輪のように離れることはありません。どちらかが消えれば、もうひとつも消えてしまいます。
いまぶじに暮らしておられるみなさまも、どうか、ときに思い出してください。私たちはその両輪のバランスの上で、毎日生きていることを。