江戸時代の淀

写真は明治24年に発行された、江戸時代の淀を描いた地図です。(クリックすると大きくなります)
今の淀水垂町、宮前橋を渡ったあたりの上空から淀城の方向。南東方面を写したものですね。おそらく厳密に正確な縮尺ではなく、イラストといった趣ですが、当時の雰囲気がわかると思います。

淀の、この形ができあがったのは、江戸初期の寛永14年(1637)以降のこと。旧二条城が移築されたという天守閣は、宝暦6年(1756)に落雷により大破しているので、それまでの姿が現されていると考えられます。
宇治川、桂川、木津川の位置が、今とまったく違うのも興味深いところです。

いちばん向こう側、通称「三軒寺」の左端に東運寺があります。三軒とも、現在と変わらない場所にあたります。
東運寺は建物がひとつしかありませんね。元文4年(1739)に本堂および薬師堂が再建されているので、その前の絵なのかも知れません。
 

戊辰戦争と東運寺

幕末の激動期、東運寺もその波に巻き込まれています。
明治維新直前の慶応4年(1868)1月3日に始まった「鳥羽伏見の戦い」は、5日には淀へ至ります。淀の町は、敗走する旧幕府軍によって焼け野原にされたようです。
三軒寺は旧幕府軍の負傷兵をかくまい、手当をする病院となります。亡くなった兵士の火葬、そして埋葬もされました。

写真は、その遺骨が納められた碑。「戊辰役東軍戦死者埋骨地」と掘られており、墓地入り口に近いところに、今もひっそりと立っています。

あらためて数えてみると、それからまだ150年しか経っていません(2018年現在)。今の静かなこの地で、こういう過酷な内戦があったことは、なかなか考えにくいことですね