12月8日は「成道会(じょうどうえ)」といい、お釈迦さまがおさとりになった日として、私たちがたいせつにしている日です。

ここで「さとり」と、かんたんに言っていますが、いったいさとりとはどういうものなのでしょうか。なかなか軽々しく、言葉では表し難いものではあります。
ですが、仏さま-お釈迦さまを信仰する私たちにとって、目指す究極はやはり、同じように「さとりをひらく」ことです。

 

では、もしもあなたがさとったら、どう変わると思われますか?

ささいなことには動じない、強い心を持つことができるのでしょうか。

どんなことでも見通す、超能力のような目を持つことができるのでしょうか。

 

じつは、さとっても、あたりまえの日常が続くことは変わりません。年はとりますし、いつか、その命を終えます。さとっていなくても同じです。そういう意味では、人間を超えた力を持つわけではないのです。

では、その差はどこに出てくるのでしょうか。

 

それは、あたりまえの毎日を見る目が変わるのです。おなじできごとに対しても、受け止め方が変わってくるのです。その変わりようは、たとえば年を感じたとき、いよいよ自分の命の終わりを覚悟したとき、私たちの生きる態度にあらわれるかも知れません。

 

しかし、そのためには、仏さまの教えに沿った暮らしが必要です。同じようなくり返しに見える、日常をたいせつに送らなければなりません。

さとりとは、一時の発見で終わってしまうことではありません。うかうかすると、失ってしまいます。これで終わりということがないのです。

一生はくり返しのできごとに見えて、じつは一度しかない場面が次々と現れています。日常を限りあるものと見据え、ていねいに積み重ねることによってのみ、私たちはさとりに近づき、さとりを見失わずに暮らしていけます。いよいよのときを、慌てることなく迎えることができるのです。