禅宗のひとつである曹洞宗には、福井の永平寺、横浜の總持寺というふたつの大本山とともに、全国にいくつもの修行道場があります。
道場では、坐禅を中心とした、修行の生活が行われています。曹洞宗の者にとって、坐禅は修行の根幹です。坐禅は、場所の静けさ、満腹や空腹を避けるタイミングなど、その環境を少し選びます。もちろん一般のご家庭でも、静かな場所、静かな時間を選んでできるのですが、やはり最適なのはこういう道場だと思います。
永平寺の日常においては、坐禅は朝と晩に行われます。
坐禅は、その形、その息づかい、その心の持ちようで、お悟りを開いたお釈迦さまをまねぶ修行です。
坐禅の形は、経験を積み重ねることで、整えられるようになるものです。足を組むことができなくても、静かなところで、身体の動きを止めて整えることは、少しずつ慣れてくるでしょう。坐禅は痛みの我慢比べではないので、そこで無理をする必要はないのです。
ところが、心の持ちようを整えることは難しいものです。身体を静かにとどめているときは、考えることや、思うことが常にあふれ出てしまいます。調えようとしても、なかなかできません。
曹洞宗の指導者であった内山興正老師は、そのあたりを、「思いは頭の分泌物」と表現されています。
私も道場では、「考えや思いが湧いてきたら、そのまま流してやれば良い」と教わってきました。湧いてくるものを止めるわけではなく、そこに引っかからないようにすれば良い、ということなのでしょう。
坐禅の指導では、悟ろうという思いはもちろん、この時間で何かを得てみたい、という思いは否定されます。それは、「悟ろうという欲望」に引っかからないように、という注意と言えます。
道元禅師も、そのご著書の中で「坐禅は習禅にはあらず」と、くり返し諭しておられます。坐禅はテクニックの上達を目指すものではないのです。
もし、坐禅で目指すものがあるとすれば、それは「只管打坐(しかんたざ)」でしょう。ただただ、坐禅をすれば良いだけ、という言葉です。それは、お釈迦さま以来、代々のお弟子さま方(「仏祖-ぶっそ」と呼びます)がなされてきたものだからです。
そういう意味で、坐禅は信仰なのだと思っています。
私たちが坐禅をしているとき、仏祖と同じ境地にいる、という信仰です。
その境地がもたらすのは、貪りや妬みという毒から逃れられた、安穏なる日常の時間です。老いや病い、命尽きることへの恐れを乗りこえる、強くしなやかな心持ちです。
私も及ばずながら、毎日をその境地に沿わせて暮らすことができたら、と願っています。
曹洞宗の藤田一照老師は、「意識の上で物足りなくても坐禅を信じて安心して坐っていればいいわけです」とまでおっしゃっています。
坐禅は、始めてしまえば安心できるもの。そこへのもっとも高いハードルは、おそらく坐禅を始めるまでにあるのでしょう。
もしご興味おありでしたら、この「おうちで坐禅」や、「坐禅のすすめ」などもどうかご覧ください。曹洞宗、全国曹洞宗青年会が公式に作っている、坐禅への誘いです。