もう何年も前のことです。ある男性が若くして亡くなったときの話しです。
お逮夜のおつとめの後、故人のお父さまとちょっと話し込んでいました。お父さまは冷静に見え、ご自身の感情の揺れをじつに的確に言葉にして表現されていました。その中で、「これ(悲しみ)も時間が解決することなのでしょうね・・」とおっしゃるのですね。
こういう場で、悲嘆の中にいる人が言う場合、私はそのままに受け止めます。ご遺族が日々を過ごす励みにされることもあるでしょう。

ただ、周囲の人が使う慰めの言葉としては、これは不適切だという指摘もあります。おそらく「悲しみは時が解決する」ことを、「解決される前」ではわからないからだと思います。
時が至らぬときは、そう思いたくても出来ないということがあるのだろうと想像します。

時間がずっと経ってやっと、たとえば「あなたと過ごした時間が、これから生きていく私の力になるのだ」というような心境に至って初めて、「悲しみって、時が解決してくれるんだな」と思えるようになるのでしょうか。

そこにたどり着くため、周りはただ見守ることだけしかできそうにありません。
悲しみの経験は私たちに、それを解決するのは他ならぬ自分自身であると気づかせてくれます。また、逆に、自分の力の限界を知る機会でもあります。

かなりの状況差や個人差がありそうです。でも、いつかみんな、そこにたどり着けるものなのだろう、とも思います。
悲しみは本当に時が解決してくれるのです。