4月8日はお釈迦さまのお誕生日。花まつりと言われています。

お釈迦さまはお生まれになって7歩歩き、右手で上を、左手で下を指し「天上天下唯我独尊(てんじょうてんげ ゆいがどくそん)」とおっしゃったと伝わっています。お釈迦さまの尊さを賛嘆する意味もあり、また、私たちひとりひとりの持つ尊さについて述べられたのだ、とも解釈されるようです。

花まつりの日、花御堂におまつりされるお釈迦さまは、裸のお姿です。
おぎゃーと生まれてこの世に出てくるときは、お釈迦さまだって、一国の首相だって、どんな人だって裸の姿です。人として生まれることに、ここでは違いがありません。裸のお釈迦さまが、この言葉をおっしゃるところに意味があるのでしょうね。

 

ところで、生まれたときは裸でも、私たちは成長するにつれ、親子や友人や夫婦や近所や仕事関係など、いろいろな縁を結んでいきます。そして、裸から服を着ていくように、さまざまな顔や肩書きを持って生活していくことになります。

私たちはそれがあたりまえに思って暮らしていますが、ふと、「顔や肩書きや、何にもない裸の自分」を想像したとき、人によっては孤独で不安な気持ちになるかも知れません。それが、尊いものとは感じられなくなっているかも知れません。

では、そのさまざまな顔や肩書きが、もともと持っている、人として生まれた裸の尊さを曇らせてしまったのでしょうか。
もちろんそんなことはありません。

 

親子のあいだで、こういうことを教えられ育ててもらった。
友だちの関係の中で、あの助言があったから、今の自分がある。
同僚の関係の中で、こんな自分の悪いところを指摘してもらった。

 
たとえばこんなことが積み重なって、私たちは、いくつかの顔と肩書きを持つ自分の、周りにあるいろいろな縁に気づきながら生きています。もしも裸の自分に不安が生まれても、その縁が和らげてくれるでしょう。

縁の源は、裸の尊さにあります。裸の尊さは、縁によってさらに磨きがかかっていくのです。