たいせつな人が亡くなり、その弔いをしようとするとき、枕経からお通夜、そしてお葬式は中心となる供養の儀礼になります。

 
お葬式には、ふたつの目的があります。

ひとつめは、仏さまの新しい弟子として、故人をお迎えすること。

ふたつめは、故人を仏さまの道へ送り出し、お別れをすることです。

 
曹洞宗で勤められるお葬式では、その前半で、ひとつめの目的をめざします。
仏さまの弟子となるための誓いの言葉を、導師が故人に代わって唱えつづけます。前半の最後で導師は、故人がたしかに仏さまの弟子となったことを、証明する言葉でおわります。

 
そして後半は、ふたつめの目的をめざします。
故人を弔う唱えごとが重ねられ、引導が渡されます。引導は、故人の生前の徳をたたえ、仏さまの弟子としての、新しい道行きの平安をお祈りするものです。
弔電の披露や、焼香がなされるのも後半です。

そのふたつによって、故人とご遺族とに安心と落ち着きをもたらし、亡くなったことを社会に向けて知らしめようとするのです。

 
     ☆   ☆   ☆

 
お葬式の時点では、悲しみだけではなく、たとえばそれまでの看病の疲れや、それからの段取りへのとまどいが混じった、不安で重い気分になることもあろうかと存じます。

ご家族が亡くなったときには、思いのほか手続きが多いものです。
病院でお亡くなりになった場合は、死亡診断書を受け取り、退院と、搬送の手配をしなければなりません。ご自宅でしたら、死亡の診断をしていただく必要があります。
葬儀社の決定、お葬式の日時や形式についての検討、菩提寺との打合せも入ります。

 
現在のお葬式には、一般葬や家族葬、直葬(炉前葬)まで、いろいろな形があり、それぞれ一長一短があります。
たとえばご会葬が多ければ、対応に手を取られますが、その分、悲しみを大勢の人と共有できます。少なくなると、じっくりお別れに集中できますが、その分、悲しみを一人で抱えなくてはいけません。

どの形がいちばん良いのかは、故人の年齢や、故人とご縁のある方々との関係によっても、変わってくるでしょう。可能ならば、まだお元気なうちに、なんとなくイメージを共有されておく方が良いとは思います。

 
ですが、こういう話題は、なかなか上手くいかないことも多いもの。
私たちはどうしても、いのちの衰えや終わりには、背を向けてしまいます。そのためか、あとになって「こうやっておけば良かった」と、後悔することがあるとも聞きます。
しかし、それは修正ができると、私は思っています。その意味では、お葬式という瞬間だけで、弔いたい気持ちを満たすのは、そもそも無理があるのではないか、とも考えています。長い時間がかかっても良いのです。お葬式のこと、その後のこと、いっしょに考えましょう。

 
      ☆   ☆   ☆

 
ご闘病の後にしても、突然の事故にしても、故人は、自らのいのちの終わりを見せることによって、私たちに大切なことをお示しくださいます。
残された私たちが供養し、弔う功徳によって、故人の仏さまとしての道行きは確かなものとなり、私たちの不安が除かれ、安心がもたらされます。
そして、この功徳のご縁が、これから生きていくみなさまの、日々の力のもとになるようにと願っています。